圓(まどか)

万葉人が愛した伯耆国

かつて、この地は伯耆国の中心だった

万葉歌人・山上憶良が国司として赴任した古代へ思いを馳せる

伯耆国イメージ鳥取県のほぼ中央に位置する倉吉は、古代には伯耆国の国府が置かれ、政治・経済・文化の中心として栄えた。それを裏付けるかのように、現在の市街地西側の国府川左岸丘陵地に、奈良時代から平安時代の役所だった伯耆国庁跡や、国庁に関連すると推定される国分寺跡・法華寺畑遺跡が残っていて、往時の繁栄ぶりを偲ばせている。

「貧窮問答歌」で知られる万葉歌人の山上憶良(660~733年頃)は716年(霊亀二)4月27日に伯耆国国司としてこの倉吉の地に赴いた。57歳の時である。

憶良の歌は、長歌・短歌合わせて七十七首が『万葉集』に収められているが、伯耆にいたのは5年間で、当時は漢学や漢字に打ち込んでいた時期であったのだろうか、残念ながらこの地で作品は残していない。

この史実を基に、倉吉市は国際児童年にあたる昭和54年秋、大歌人とゆかりを偲んで、『万葉集』(巻第五)「白銀も黄金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」という親の子供への愛の歌の歌碑を、現在の深田公園に市制二十周年記念事業として建立した。